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「銀糸の枷」

銀糸の枷

銀糸の枷

ロザリオはアクセサリーではないので、聖品として売られているものやアンティークなどは特に繋ぎが弱い。落すとふつりと切れて、そのまま弾けてばらばらになってしまうこともある。最初に購ったロザリオはオーロラのかかった透明のプラスチックビーズのもので、珠も小さく首にかけようとするとやっとの長さ(そもそも首に掛けるものではないのだし)、誤ってちょっとひっぱるとすぐに途中から外れてしまうので、何度も自分で繋ぎ直したものだった。

3つ目に選んだのは水晶のような大きめの硝子ビーズで編まれたロザリオで、地金の厚い重い十字架がついていた。真冬に購ったせいもあってか、手に持っても首にかけても、その重さ・冷たさは金属の枷を思わせた。

重いロザリオはその感触や重みで枷に似ているけれど、繊いロザリオもやはり枷に似ていると思う。簡単に切れるとわかっているものを手にしたら、切らないために細心の注意を払わねばならないからだ。
重いロザリオが物理的な枷ならば、繊いロザリオはまるで心に絡む銀糸の枷のようだと思う。

その儚さが好きで、自分で組むロザリオにはわざと細いピンを使ったりすることもある。

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画像の透明なビーズのものが3つ目のロザリオ。もう片方は「淡水パールには銀ではなくて金!」と思って金のピンで組んだ自作品。ロザリオ愛好仲間の友人に「切れそうでよろしい」という賞賛の言葉を頂戴した。よもや同じような視点でロザリオを眺めている人がこの世にいるとは思わなかった。

アンティークの聖書と硝子ビーズのロザリオ、淡水パールのロザリオ。聖書は1800年代フランス、硝子ビーズのロザリオはイタリア製。

「流れて落ちる」

キータッセル

キータッセル

房が好きだ。和洋を問わずああいう形状のものを見ると何故か糸で手繰られたように引き寄せられてしまう。多色遣いのコントラストが美しいキータッセル、中国の朱い髪飾り、藤の花房、銀でできたビラ簪。鍵でもペーパーナイフでも懐中時計でも、房をつけるだけで100倍も好いものに見えてくるのだから不思議なものだ。

房という意匠が飛びぬけて好きだと自覚したのは10代半ば、海外のインテリア雑誌に載っていたカーテンや鍵につけたタッセルを見たときだ。シンプルなもの、二色づかいのもの、結び飾りのついたもの、タッセルの先にまた小さなタッセルやビーズをつけたものなど、仔細に見ると本当にいろいろなデザインがあって、その多様性がまたわたしの博物学的趣味を捉えたのだと思う。

よくよく思い出してみると七五三のときに挿していた扇やはこせこにも紅白の房や銀のビラがついていて、そのはこせこと扇だけは和箪笥に返さず自分の机の引き出しにしまっていた。それが未だに手元に残してあるのだから病膏肓に入るというものだ。

流れて落ちるものの靭さと儚さと華やかさとを備えた具象。水にも似、花にも似、長い髪にも似ている。わたしは零れ落ちる己が魂の彼方を、その流れの先に視る。その喪失感と幽かな痛みを繰り返すように、小さな房たちを蒐集する。

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愛用のマーカサイトの時計にも房、携帯電話のストラップにも房(おまけにルルドのマリアのメダイに菫青石、趣味全開すぎ)、家具についてる鍵にも房。バッグの持ち手にも房がついてることもあって、どれだけ房フェチなのかと自分でも呆れる。でも好き。

「妄想サナトリウム」

妄想サナトリウム

妄想サナトリウム

サナトリウムなんて行ったことも映像を見たこともないのに、何故かわたしには幼い頃からその風景が記憶されている。白と白に近いほど淡い碧で塗られた木枠の窓と、鎧戸に似た壁面を持つ西洋風の古い建築。窓の上には三角の破風がついている。長じて思ったことは、記憶というよりこれは記録なのかもしれないということだった。わたしの記憶ではないのなら、これはわたしの魂が引き継いでいる記録なのだと。

わたしはその窓にかかる白く薄いカーテンをぼんやりと見ている。木枠の装飾を透かす曇天の薄陽と、カーテンをふわりふわりひらめかせる微風。幾度も塗りなおされてきたらしい平滑でない手触りの金属のベッドヘッドと、白い何の装飾もないカバーのかかった枕に背を預け、わたしはシーツの上にすわってそれを見ている。窓の外ではなく、ただ窓を見ている。

そんな「記録」のおかげで魂の憧憬の象徴と化していた木枠の窓。でもそんな窓がついた家に住めることなんて一生ないだろうと思っていたのだけれど、ある日突然「別に”家”についてなくてもいいじゃない」と何かが囁いた。
そしてやってきた解体家屋の建具、モール硝子入り木製扉1枚也。自力で白く塗って、窓の前に設置。ダイヤの形に切り取られたその一面があるだけで、部屋は一気に妄想サナトリウムと化す。

ダイヤ型の窓枠が朝の薄日を受けて白いカーテンに紗る。寝台の上に魂の半分を残してわたしはそっと起き上がる。開けていない偽物の窓の傍で、薄いロォンのカーテンが揺れる。

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木枠の扉/アンティーク(昭和の建物から解体されたもの)
すりガラス、モール硝子、透明ガラスを配した木枠のこれは実は窓ではなくて元・扉。下1/3くらいの面は木、上が硝子入り。初めてこれをベッドから見える窓の前に置いて眠った次の朝は、もう目が醒めなくてもいい、ここで死ぬ!もっかい眠ってそのまま死ぬ!って思ったくらいにはわたしのダイヤ枠の窓への思慕は強かったのであります。普通買わないよこんなもの、と呆れられても幸せだからいいんです。

「ヴィオラ・マニア」

ヴィオラ・マニア

ヴィオラ・マニア

聖母マリアの花、菫。この花のモチーフが好きなのだと気づいたのは、菫に纏わるものが相当数手元に集まってからだった。菫の花籠が描かれたヴィクトリアンカード、菫のコサージュ、デメルの菫の砂糖漬けの丸箱、菫の名を持つ鉱石。古い家具の引き出しの奥から出てきた、しみだらけでスカラップの縫い取りも解れ、穴が開いてしまっている菫刺繍のハンカチも捨てられずに取ってある。

けれど植物の菫そのものが好きというよりは、菫という意匠、色みとあの細くしなる茎が好きなのだろう。青みのかかった独特の紫と、淡い緑のか細い茎。三色菫も地についているときはまったく美しいとも思えないのに、花屋の軒先で切られて手のひらほどのシングルブーケに束ねられているものを見ると、まるで別の植物のように強く惹きつけられる。ぞんざいに輪ゴムで束ねられただけの、ケーキひとかけらほどの値段しかつけられていない質素でシンプルな花束。そんな地味な扱いであることも愛しさを覚えるひとつの要因ではあるのだけれど、おそらく何よりも花の大きさに不釣合いなほど細く柔らかな茎がはっきり見えるからなのだろうと思う。

あの茎はまるで斬られることを予知しているなよやかな首、或いは下垂する白い腕のようだ。束ねられた可憐な死の具現。
死と悲しみと清廉と、反するように重く甘い馨を孕む、菫という意匠がとても好きだ。

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画像はケビントの中のマリア~菫つながりのコレクションコーナー。

タグ:植物、アンティーク

「雛の遊び」

雛の遊び

九谷焼茶器揃い

桃の節句の頃が来ると、生家にあった雛飾りを思い出す。家をなくしたときに手放してしまったけれど、7段だか8段だかのとても豪華で美しい雛飾りだった。人形だけでなく小さな漆器まで並ぶもので、よくそれでままごとをしていた。ついていたオルゴォルだけが今も手元に残っている。

着物を着替えて帯締めて、という歌詞の唱歌のように、学校から帰ると晴れ着を着せて貰って母と何をするでもなく畳の上ひなたぼっこをして過ごした。淡い色の菓子はほんのりと甘かった。

そんな記憶と何故か直結するのがこの赤い九谷の茶器揃い。煎茶用の茶器のため、ミニチュアを思わせるサイズだからかもしれない。桃ではなく桜だけれど、手描きの花びらに幼いような華がある。

唯一手元に残ったオルゴォルの螺子を捲いて、この茶器でお茶を入れる。気にいりの和菓子を添えてひとりぼんやり過ごす日には、子供の頃の自分と今の自分とが目を合わすでもなく向かい合って、ままごと遊びをしているような気がするのだ。

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九谷焼の煎茶器揃い。作家ものらしいのだけれど、たまたま見かけたものを一目惚れでそのまま買ってきたので今となっては詳細不明。湯冷まし用の片口の縁が、手描きのモチーフと同じ桜の花びらのかたちにひねってあって気遣いを感じる。薄手に焼かれた肌は硬質で、春先のとっておきの器ではあるのだけれど、中国茶を飲むのにも程よいサイズだったりする(口径が5センチくらいしかないのです)。後ろにこっそりいる兎雛はみとせ作、高さ3センチ未満のミニマムサイズ。

九谷焼 煎茶器揃い/現代・都内ショップで購入

「天の雫」

天靑石

天靑石

この石は「天靑石」、てんせいせき、という。clestineというのが横文字の名前で、クレスタインとかセレスティーンとか発音する。天のことを「セレスト」という国もあるらしい、その名と同じ空の色を映した、天の雫に似た水灰色の美しい鉱石。
他に好きな石はと言えば菫青石(アイオライト)、紫か水色の出ている蛍石。アクセサリーとしては紫水晶が好きだけれど、石として見るなら透明な水晶もやはりこの上なく美しい。

わたしの鉱石好きはロザリオよりも似非で、クオリティやら産地やらは気にせず目に留まって気に入ったものだけを購う。パワーストーンとしての鉱石も少しは齧ったがやはり半端で、結局は美しいと思えればそれだけで癒される、それだけでいい、そういう刹那的な鉱石好きだ。そんな風にしていたら、ケビントには冷たくて硬質な感じの石ばかり集まっていた。

最近知ったのだけれど、天使の名を冠する水色の石「エンジェライト」もこの天靑石の血縁らしい。さすが蒼穹と天使とはひとつの泉に浴するものなのだなあと感心してしまった。

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ミネラルフェアで買った天靑石。もっと高価な個体を選べばもっと透明度が高くて色もはっきり出てるんですが、わたしにはこれでじゅうぶん。綺麗な薄水、と思って買った「含ストロンチウム方解石」も調べてみたら天睛石の仲間だった。三つ児の魂というべきか、よほど好きなものの傾向が限られているのだと思う。

含ストロンチウム方解石

含ストロンチウム方解石

「ロザリオホリック」

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アンティークショップや教会で気に入った十字架やメダイを見つけるとつい買ってしまうおかげで、いつの間にやらデメルの紙箱はマリアさまでいっぱいになった。ときどき取り出して並べては仕舞う、それだけでも幸せだったけれど、ミネラルフェアで使うあてもなく買った鉱石ビーズを眺めているうちに突然思い立って、自分でロザリオを組むようになった。似非もここまで行けばなかなか突出していると思う。

薔薇の花冠の名の由来のためか、ロザリオ製作者の方はロザリオを「編む」と言う方が多いようなのだけれど、そういう方はワイヤーを曲げて巻きつけながらまさに「編んで」おいでなのだと思う(所謂めがね留めとかメガネ巻きとか呼ばれる手法)。
わたしなぞは横着なので9ピンを使ってくっつけている。だからなのか、「組む」という言葉が自分ではしっくりくる。わたしは自らは何も作り出していないし、編むというほどの祈りも込めてはいない。

自分の好きな鉱石の珠と好きなメダイや十字架で自分の好きなロザリオを組む。黙々と組んでいると、不思議に心が落ち着く。雑念が指先を通して吸われて行くような気がする。
けれどこれらは所詮祝別されることのないもの、オブジェに過ぎない。でもそれでいい、否、それがいいのだと思う。何処にも明確に結び付けられない祈りのようなものは、天と地の交わる場処へ還ってゆくのだろう。

アーティストなどという傲慢で身勝手な路を生きているわたしだけれど、だからこそ時折祈りに近い無心の時間が欲しくなるのかもしれない。

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自作ロザリオの一部。上の画像はローズカットのオニキスに無原罪のマリアとMの文字を組み合わせたセンターメダイ、赦しのクロス。聖品のクロスやメダイは裏面にも意味があって美しく、見ていて飽きない。

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何年かけて一体いくつ作ったのか、もう数える気もない。めったにないが、いくつかは人に贈ったりもした。透き通った石ばかりが好きだったのだけれど、最近オニキスやアベンチュリンなんかもプリミティブでいいなと思う。

「祈りの薔薇」

rosario

ロザリオは薔薇の輪(花冠)表す言葉で、カトリックの一部で使われる祈りのための呪具。アクセサリーとして少し前から流行りのようですが、本来は首にかけたりするものではありません。ロザリオはいわば日本における数珠、数珠をアクセサリーにはしないのと同じことです(海外の古い写真で首にロザリオがかかっているものがたまにありますが、あれはSleeping-beauty、死者の写真であることが多いです)。

とはいえロザリオの形は完成されていて本当に美しく、繊細な細工のものもあり、身に装いたいという気持ちはよく判る。

わたしは幼少時少しだけ聖歌隊にいましたが、実のところ洗礼も受けていないし信仰する者でもありません。ロザリオや十字架などの意匠が何故だかずっと好きというだけの、言ってしまえば似非、否、似非にすらなっていないただの横好きです。だからというのではないですが、海外で日本のものが意外な使われ方をしているのと同じで、わたしもそのあたりは外様の理屈を通してしまうこともあります。それでも不思議とロザリオや十字架を見れば、意識のどこかが澄んだ場処へ誘われる感覚がある。

洋の東西を問わず、国籍も人種も問わず、一神教でも多神教でも神に纏わるものにはやはり独特の作用があるように思います。

ずいぶん昔に一目惚れして買ったロザリオケースとロザリオのセット。ケースの意匠はルルドのマリア、深い蒼のエナメルがのせてある。ロザリオは銀の薔薇ビーズ遣いで小さめ。気づくと手元にはかなりの数のロザリオがあります。信者でも何でもない者にこれだけの愛着を持たせるだけでも、何か視えない力がある証なのでしょう。

銀の薔薇ロザリオとルルドのマリアロザリオケース(イタリア製)/現代

祭壇

祭壇

「水溟宮」のコンテンツのトップ画像の全体。この小さな祭壇は、青と白をテーマにしたインテリア関係の洋書で見かけたものをほぼそのまま描きました。室内にこんな祭壇があったら日々を敬虔に美しい心映えで過ごせそうで、当時非常に憧れたものです。ちなみにファイル名が”midori”となっているのは、わかる方にはすぐわかるかもしれませんが、某長編小説家の長編小説を読んだ後だったから。モデルというわけではないのですが、四姉妹の末妹・碧の通っていた学校や舞台の雰囲気を取り入れて描きました。


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紅廓

紅廓

建て増しに建て増しを繰り返してあちこちに段差や不測の中庭ができてしまっている、繁盛していた茶屋や旅館にはそういう建物がよくあったそうです。渡り廊下にも飾り格子を配したあたりが楼主の羽振りのよさを表すような。 錦紗縮緬に大輪の牡丹柄を染めた大振袖は紫、花くすだまのに蝶の帯はだらりに結んだ舞妓衣装。タイトル通り花街の舞妓をイメージして描いています(おろし髪なので史実とはあってませんが)。実は階段フェチのみとせのりこ、階段が構図内になくても、こういう段差の複雑な絵を描くときは見えないところにある階段を妄想して悦に入っています。


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