アンティークショップや教会で気に入った十字架やメダイを見つけるとつい買ってしまうおかげで、いつの間にやらデメルの紙箱はマリアさまでいっぱいになった。ときどき取り出して並べては仕舞う、それだけでも幸せだったけれど、ミネラルフェアで使うあてもなく買った鉱石ビーズを眺めているうちに突然思い立って、自分でロザリオを組むようになった。似非もここまで行けばなかなか突出していると思う。
薔薇の花冠の名の由来のためか、ロザリオ製作者の方はロザリオを「編む」と言う方が多いようなのだけれど、そういう方はワイヤーを曲げて巻きつけながらまさに「編んで」おいでなのだと思う(所謂めがね留めとかメガネ巻きとか呼ばれる手法)。
わたしなぞは横着なので9ピンを使ってくっつけている。だからなのか、「組む」という言葉が自分ではしっくりくる。わたしは自らは何も作り出していないし、編むというほどの祈りも込めてはいない。
自分の好きな鉱石の珠と好きなメダイや十字架で自分の好きなロザリオを組む。黙々と組んでいると、不思議に心が落ち着く。雑念が指先を通して吸われて行くような気がする。
けれどこれらは所詮祝別されることのないもの、オブジェに過ぎない。でもそれでいい、否、それがいいのだと思う。何処にも明確に結び付けられない祈りのようなものは、天と地の交わる場処へ還ってゆくのだろう。
アーティストなどという傲慢で身勝手な路を生きているわたしだけれど、だからこそ時折祈りに近い無心の時間が欲しくなるのかもしれない。
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自作ロザリオの一部。上の画像はローズカットのオニキスに無原罪のマリアとMの文字を組み合わせたセンターメダイ、赦しのクロス。聖品のクロスやメダイは裏面にも意味があって美しく、見ていて飽きない。
何年かけて一体いくつ作ったのか、もう数える気もない。めったにないが、いくつかは人に贈ったりもした。透き通った石ばかりが好きだったのだけれど、最近オニキスやアベンチュリンなんかもプリミティブでいいなと思う。