作成者別アーカイブ: みとせのりこ

「祈りの薔薇」

rosario

ロザリオは薔薇の輪(花冠)表す言葉で、カトリックの一部で使われる祈りのための呪具。アクセサリーとして少し前から流行りのようですが、本来は首にかけたりするものではありません。ロザリオはいわば日本における数珠、数珠をアクセサリーにはしないのと同じことです(海外の古い写真で首にロザリオがかかっているものがたまにありますが、あれはSleeping-beauty、死者の写真であることが多いです)。

とはいえロザリオの形は完成されていて本当に美しく、繊細な細工のものもあり、身に装いたいという気持ちはよく判る。

わたしは幼少時少しだけ聖歌隊にいましたが、実のところ洗礼も受けていないし信仰する者でもありません。ロザリオや十字架などの意匠が何故だかずっと好きというだけの、言ってしまえば似非、否、似非にすらなっていないただの横好きです。だからというのではないですが、海外で日本のものが意外な使われ方をしているのと同じで、わたしもそのあたりは外様の理屈を通してしまうこともあります。それでも不思議とロザリオや十字架を見れば、意識のどこかが澄んだ場処へ誘われる感覚がある。

洋の東西を問わず、国籍も人種も問わず、一神教でも多神教でも神に纏わるものにはやはり独特の作用があるように思います。

ずいぶん昔に一目惚れして買ったロザリオケースとロザリオのセット。ケースの意匠はルルドのマリア、深い蒼のエナメルがのせてある。ロザリオは銀の薔薇ビーズ遣いで小さめ。気づくと手元にはかなりの数のロザリオがあります。信者でも何でもない者にこれだけの愛着を持たせるだけでも、何か視えない力がある証なのでしょう。

銀の薔薇ロザリオとルルドのマリアロザリオケース(イタリア製)/現代

「浴室幻想」

19_bath

昔から繰り返し視る夢がある。廃墟と化した浴室の、冷たい浴槽に浸かっている夢。ワイン色の朽ちたタイルであったり、コンクリートの壁であったり、浴室の風景は変わるが、わたしは変わらず口がきけないらしい。実験動物なのか、愛玩物なのか観賞魚なのかわからないが、ただぼんやりとその水槽に「飼われている」。幸福でも不幸でもない、ただそれだけの夢。醒めてみると奇妙に懐かしいような気がする夢。

そんな冷たくほの暗いノスタルジーとは別に、通常の入浴、温かい湯に浸かるのは大好きで、これはもうひとつの趣味といってもいいのかもしれない。低血圧で代謝が悪いので健康維持のためもあるのだが、健康維持などという名目とは別にしても、プライベートな密室である浴室に、好きなアロマやお茶や蝋燭を持ち込んで、ぼんやりと水溶の気分に浸るのはこの上なく快い時間。

そのため必ずバストイレ別、を絶対条件に部屋を探すことにしているのだけど、もしも自分の家を好きに建てられることがあるならば、窓があって光の入る浴室を階上に持ちたい。マンションの味気ないポリプロピレンの空間ではなく、もうひとつの自室のように寛げる場所、わずかな緑が置けるような、温室のような浴室。

とはいえ日本ではそんな浴室を持つことはなかなか難しい。広い庭に高い木々でもなければ、窓つきの浴室の窓も開けるに開けられない。

目下のところ温かい浴室も冷たい水槽も、わたしにとってはどちらも心に描くばかりの幻想のノスタルジーなのである。

というわけで当然こんな素敵な浴室はマンション暮らしのわたしの棲息場所にはありません(笑)。これは某洋館に行ったときに撮ってきた写真。洋館に行くと浴室に入って触ってみたいと思うのだけれど、どこの洋館も浴室は外から覗き込むしかないようになっているので、ますます浴室は幻想の海と化すのでありました。

某洋館の浴室(おそらく明治の建築)

そんな冷たくほの暗いノスタルジーとは別に、通常の入浴、温かい湯に浸かるのは大好きで、これはもうひとつの趣味といってもいいのかもしれない。低血圧で代謝が悪いので健康維持のためもあるのだが、健康維持などという名目とは別にしても、プライベートな密室である浴室に、好きなアロマやお茶や蝋燭を持ち込んで、ぼんやりと水溶の気分に浸るのはこの上なく快い時間。
そのため必ずバストイレ別、を絶対条件に部屋を探すことにしているのだけど、もしも自分の家を好きに建てられることがあるならば、窓があって光の入る浴室を階上に持ちたい。マンションの味気ないポリプロピレンの空間ではなく、もうひとつの自室のように寛げる場所、わずかな緑が置けるような、温室のような浴室。
とはいえ日本ではそんな浴室を持つことはなかなか難しい。広い庭に高い木々でもなければ、窓つきの浴室の窓も開けるに開けられない。
目下のところ温かい浴室も冷たい水槽も、わたしにとってはどちらも心に描くばかりの幻想のノスタルジーなのである。
というわけで当然こんな素敵な浴室はマンション暮らしのわたしの棲息場所にはありません(笑)。これは某洋館に行ったときに撮ってきた写真。洋館に行くと浴室に入って触ってみたいと思うのだけれど、どこの洋館も浴室は外から覗き込むしかないようになっているので、ますます浴室は幻想の海と化すのでありました。
某洋館の浴室
(おそらく明治の建築)

「続・馨に溺れる」

aroma

馨モノが好きな割にはアルコール系香料の香水が合わない(鼻の奥が痛くなって頭痛がするという為体)体質。
香水は馨という目に見えないものに名前を与えてイメージを遊ぶ、実に美しくも魅惑的な装置で、「オンブル・ブルゥ」などと聞くとたまらない衝動を覚える。そういった概念はとても魅力的なのに、相性が悪くて悔しい。

だけれど馨モノは好きなので、香水ではなくアロマオイルを使う。
アロマオイルというとどうもナチュラルで素朴な、悪く言えばどんくさいイメージがあって、人工的に洗練された耽美的な魅力やブレンドの複雑さでは香水に及ばないけれど、そのぶんシングルでの馨の精度は高い。

そういった性格の違いは、それらを入れる容器に出ていると思う。香水瓶は宝飾品のように女性的で絢爛だけれど、アロマボトルの遮光瓶の色やかたちは医療器具のようにシンプルで美しい。あの器というものこそはおそらく、目に見えない馨というものに与えられた容姿そのものなのだろう。

自分が体質的に、社交界の貴婦人の持つ媚惑の装置ではなく、病室の絶対的な冷たさを選んだあたり、本性が出ているのかもしれない。

お気に入りはGAIAのローズマリー。夏はグレープフルーツ、冬はラベンダー+ユーカリをよく使います。同じ種類のオイルでも会社によって馨が違うので、実物を自分の好みで確認して選びます。原料の産地や工場の違いもあるけど、天然のものなので、紅茶と同じくその年の気候によっても違って当然といえば当然。ちなみにブルガリアンローズやジャスミンなどはまさしく液体の宝石並の価格です(2mlや5mlで5桁価格)。
ボトルとケビント/アロマオイルはGAIA、青い瓶はニールズヤード、ケビントは昭和初期のもの

「馨に溺れる」

蝋梅、沈丁花、茉莉花、薔薇、金木犀。梔子は一番最初に馨を憶えた花、生家に梔子の木があったから。
わたしは生まれつき嗅覚が鋭いらしく、むかしから空気に混ざって流れてくる香りで花の名を言い当てる子供だった。おしろいばなが咲いているのだって見なくてもわかる。
花の名と香りが一致するのは母が花が好きで、路を歩いてはわたしにあれは何の花、これは何の花、と花の名を教えてくれたせいでもあるだろう。
世の人が苦手な香味野菜も大好きなら、紅茶や中国茶の微妙な香りをききわけるのもまた楽しい。とにかく馨モノに敏感な体質であると思う。
なのだけれど、何故かアルコール系香料、所謂香水はからだにあわないらしく、近くによるだけで変調を来す。
そんなわたしだけれど、香水瓶は好きである。ラリックの香水瓶に受けた衝撃をはじめ、ひとつひとつが個性的で宝飾品のように美しい。金子功氏がその著書でレースを布地の宝石と言ったのを見たことがあるが、香水を液体の宝石と言ったのは誰だったか。フランス人だった気がするけれど忘れてしまった。
うちにある香水瓶にはなかみは勿論入っていない。
空っぽの香水瓶を眺めては、架空の夜光花の馨などに酔ってみるのも、馨への溺れ方としては最上の部類だと思う。
香水瓶は自分で買ったことはない気がする。たいがいが女の子からのいただきもので、はずれなく可愛いものをいただく。画像の香水瓶も例に洩れずいただきもので、フランス製ときいた記憶。香水ってなぜかお仏蘭西なイメージがある。
ふと気がついたけれど、この香水瓶、旧朝香邸(目黒の庭園美術館)の香水塔にシルエットが似ている気がする。香水塔というのは、要は巨大なアロマランプなのだが、あれは概念といい存在といい名前といい、わたしの永遠の憧れの装置だったりする。
香水瓶
硝子とピューター(現代)

17parfume

蝋梅、沈丁花、茉莉花、薔薇、金木犀。梔子は一番最初に馨を憶えた花、生家に梔子の木があったから。

わたしは生まれつき嗅覚が鋭いらしく、むかしから空気に混ざって流れてくる香りで花の名を言い当てる子供だった。おしろいばなが咲いているのだって見なくてもわかる。

花の名と香りが一致するのは母が花が好きで、路を歩いてはわたしにあれは何の花、これは何の花、と花の名を教えてくれたせいでもあるだろう。

世の人が苦手な香味野菜も大好きなら、紅茶や中国茶の微妙な香りをききわけるのもまた楽しい。とにかく馨モノに敏感な体質であると思う。

なのだけれど、何故かアルコール系香料、所謂香水はからだにあわないらしく、近くによるだけで変調を来す。

そんなわたしだけれど、香水瓶は好きである。ラリックの香水瓶に受けた衝撃をはじめ、ひとつひとつが個性的で宝飾品のように美しい。金子功氏がその著書でレースを布地の宝石と言ったのを見たことがあるが、香水を液体の宝石と言ったのは誰だったか。フランス人だった気がするけれど忘れてしまった。

うちにある香水瓶にはなかみは勿論入っていない。

空っぽの香水瓶を眺めては、架空の夜光花の馨などに酔ってみるのも、馨への溺れ方としては最上の部類だと思う。

香水瓶は自分で買ったことはない気がする。たいがいが女の子からのいただきもので、はずれなく可愛いものをいただく。画像の香水瓶も例に洩れずいただきもので、フランス製ときいた記憶。香水ってなぜかお仏蘭西なイメージがある。ふと気がついたけれど、この香水瓶、旧朝香邸(目黒の庭園美術館)の香水塔にシルエットが似ている気がする。香水塔というのは、要は巨大なアロマランプなのだが、あれは概念といい存在といい名前といい、わたしの永遠の憧れの装置だったりする。

香水瓶/硝子とピューター(現代)

「わたしの心臓」

わたしの部屋の壁を飾る、古い柱時計。カチカチと音をたてる振り子には金のつる草が絡まっている。何日かに一回螺子捲いてあげないと止まってしまう。時刻の数だけ鐘の音が鳴るので、ボンボン時計ともいう。
出先で急に貧血になったり、眠気に襲われてどうしようもなくすとんと眠ってしまったりすることがあって、家に帰り着いて、或いは寝台でふと目覚めて、今何時だろうと見上げると時計が止まっている。カリカリと古びた取っ手で螺子を捲いて、またわたしも動き出す。ある日また急に眠くなる、だるくなる、おかしいなあと思いながら白い寝台に吸収される。そして見上げるとまた時計もとまっている。そんなことを繰り返して、その関係に気づいたのはいつ頃だったか、それからもうずいぶん経つ。
どうやらこの時計はいつのまにやらわたしの心臓になってしまったらしい。カチカチと音を立てる、もうひとつのわたし。
この時計を買ってたぶん5~6年は経つのに、何日に一回螺子を捲けばいいのか、どんなに数えてみてもどういうわけだかまだわかっていない。
アーチ型の枠は二材の使い分けがしてあって、縁は濃くて中は明るい色。振り子にも金のつる草が絡まって、細工が細かい。普段は止めてしまっているけれど、この時計の鐘の音はちょっと独特でいい。
大正頃の振り子時計。お正月あけの霙の日に行きつけの骨董やで一目惚れ。
アーチ型で他のに較べるとかなりお高かったんだけど、どうしても欲しくて取り置きをお願いした。
手付をうとうと思ったら、「こういうマニアックなものは欲しがる人が限られてるから、また来たときでも大丈夫ですよ」と店員さんがいう。
何言ってるんですか、だからこそすぐに引き取らないと。だってうっかりその「限られた人」が見たら、瞬間で欲しがるってことでしょう? そういうものほど油断できないのです。
次の日は大雪だったんですが、それでも取りに行きました。宝物。
大正頃のアンティーク
SEIKO社製
(都内アンティークショップにて購入)

heart

わたしの部屋の壁を飾る、古い柱時計。カチカチと音をたてる振り子には金のつる草が絡まっている。何日かに一回螺子捲いてあげないと止まってしまう。時刻の数だけ鐘の音が鳴るので、ボンボン時計ともいう。

出先で急に貧血になったり、眠気に襲われてどうしようもなくすとんと眠ってしまったりすることがあって、家に帰り着いて、或いは寝台でふと目覚めて、今何時だろうと見上げると時計が止まっている。カリカリと古びた取っ手で螺子を捲いて、またわたしも動き出す。ある日また急に眠くなる、だるくなる、おかしいなあと思いながら白い寝台に吸収される。そして見上げるとまた時計もとまっている。そんなことを繰り返して、その関係に気づいたのはいつ頃だったか、それからもうずいぶん経つ。

どうやらこの時計はいつのまにやらわたしの心臓になってしまったらしい。カチカチと音を立てる、もうひとつのわたし。

この時計を買ってたぶん5~6年は経つのに、何日に一回螺子を捲けばいいのか、どんなに数えてみてもどういうわけだかまだわかっていない。

アーチ型の枠は二材の使い分けがしてあって、縁は濃くて中は明るい色。振り子にも金のつる草が絡まって、細工が細かい。普段は止めてしまっているけれど、この時計の鐘の音はちょっと独特でいい。大正頃の振り子時計。お正月あけの霙の日に行きつけの骨董やで一目惚れ。アーチ型で他のに較べるとかなりお高かったんだけど、どうしても欲しくて取り置きをお願いした。手付をうとうと思ったら、「こういうマニアックなものは欲しがる人が限られてるから、また来たときでも大丈夫ですよ」と店員さんがいう。何言ってるんですか、だからこそすぐに引き取らないと。だってうっかりその「限られた人」が見たら、瞬間で欲しがるってことでしょう? そういうものほど油断できないのです。次の日は大雪だったんですが、それでも取りに行きました。宝物。

アーチ型振り子時計/大正頃のアンティーク・SEIKO社製(都内アンティークショップにて購入)

「続・大正浪漫」

huyou

緋襦袢の紅、或いは胴裏に張られた紅絹の色の艶やかさと悲しさは、花街の格子に灯る灯りの艶やかさと悲しさに似ていると思う。

花街といえばやはり『宵待ち草』と夢路の女を思うのだけれど、あの紅は夢路の女の儚さよりも、華宵の艶と孤高を思わせる。
零落しても倣岸に美しく、翳りすらも身に纏う装飾に変えて。甘き美酒のごとき悲しみの馨を帯とともに解く。

と、言ってもこの着物はそこまで花街の馨りはしない、むしろ華宵が少女画として描いた痛みや、中原淳一のセンチメンタリズムに近いけれど。

現代の街着としてこれを着るならば、その悲しみは裡にある紅絹のように秘め、センチメンタルとノスタルジーで偽装するのがいい。
すれ違いざま流れてくる密やかな古色と退廃に、敏感な人はふと振り返る、けれど家に戻ればすぐに忘れてしまうような、そんな。

行李から出てきた和服。織の着物で図案化された柄になっているため、花の種類が判別しにくいです。おそらく大正頃か昭和の初期のもの、胴裏は紅絹です。たいそうなクラスの着物ではないのですが、色柄のせいか妙に艶やかで、そのぶんだけどこか悲しいというか、没落家系のお嬢さんらしい着物なんじゃないかと思います(笑)。
ただし、古いものだけあって白い花の上に思い切りシミが…。

アンティークお召し/大正、もしくは昭和初期

「とおりゃんせ」

hanakusudama

通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ。

子供の頃から大好きだった唄、とおりゃんせ。わたしが子供の頃をすごした町には、秋祭りなんかでは大きな縁日を張る、ちょっと有名な神社がありました。お祭りの日には人と提灯の灯りででごった返すけれど、普段はほとんど人なんかいない。そしてその神社はちょうどわたしの家からは子供の足で行ける限界いっぱいの距離くらいで、地域の子供の遊び場としてはいちばん端にあたるところでした。

それは子供のわたしにとっての世界のはて。その外はもう自分にとっては異国というか、もっと言ってしまえばその先にはもう何もないような感覚の場所。一種の結界のようなところ。とおりゃんせとくちずさんだら本当に帰れなくなるような、だから怖くておしだまって夕暮れになると逃げるように帰る、あの暗い土の景色がわたしの原風景のひとつ。

思えば世界のはてが神社だなんてできすぎているけれど、きっとあの昼でも薄暗いような場所がわたしの世界のはてだったことが、わたしのこころに与えた影響は大きいのだと思います。

神社の向こうどころかもっともっと遠くにだって簡単に行けて、今は世界の外側に暮らしているわたしですが、先日その神社に行ってみたら、やっぱりその空間と空気は「世界のはて」のままでした。戯れにとおりゃんせとくちずさんでみようかと思ったけれど、やっぱり怖くてやめてしまった。

世界のはての結界の魔力は、そこをはなれた今もやはりわたしを縛っている。

大人用の着物だったらわたしが今着たかった…と真剣に悔しく思ったこの一枚。紅色の綸子に花くすだまの染め。こうやってみると子供用とは思えない趣味だけど、丈は100センチないのです、悲しい。もう子供用の帯はないので(実はあるけどこの着物には合わない)、大人用の絞りの帯でごまかし(笑)。刷り込みなのか、今も着ているわたしの着物はこういう感じのものが多い気がします(笑)。いつまでしまっておいてもしかたないし、着用するにはちょっと汚れもあるので、人形作家のおともだちに使ってもらおうかな…と思ってます。人形によってはこのまま着せられると思う。

noah_hanakusudama

追記:
そしてほんとに着せていただいた。
『擬似少女楽園廃墟』でもお世話になったノアさんのお人形。たいへん美人な子で感無量。
ほんとに全くお直しをしないまま着せたのに、誂えたように丈も裄もぴったりだったそうで、さらに吃驚。
顔がとても好きな人形だったので思わず欲しくなったけど、90センチもある人形を置く場所はないので未練を残しつつ諦めました。

遠方の展示でどなたかに買われていったらしい。大事にしてもらっていることを願いつつ。

DollhouseNoah作品
2003.3.エコールドシモン展
(新宿紀伊国屋ギャラリー)

錦紗四つ身
(自宅行李より発掘)

「魂の寝台」

hitsugi

これ、なんだかわかりますか?

実はこれ、小さな柩、手のひらにのるくらいの大きさの棺桶です。

寺山修司の著作『月蝕機関説』(だったかな?)に、『ポケットサイズの棺桶』っていう章があって、手のひらにのるくらいの小さな棺桶の図面を、生涯にわたって何百枚も書きつづけた、実在した男性のことが書いてありました。
その章のなかみそのものには興味がなかったんですが、タイトルを見た瞬間、いいな、欲しいなって思ったんです。
その話をしたら、当時の知り合いで版画家の、たいへん器用な方がいて、突然これを作ってくれたんです。

わたしのこころは生きながら柩に安置されているので、現身で生きる世に風が吹いても嵐がきても安心です。

そんな寝台が必要なときが、誰にでもあると思うのです。

hitsugi2

中身はこんなです。真鍮板を切り出した十字架が入ってます。ご丁寧に、柩の蓋のプレートには、わたしの名前が刻んであります。とっても精巧。きいた話によると、吸血鬼映画をたくさん観て、柩のかたちを研究してくださったそうです…。

製作:Y.G.
本体は木と真鍮、中に納められた十字架は銅板と紙

「照明―夜の装置―」

wall_lump

照明器具にはそんなにこだわりはなかったつもりだったんですが、気がついたら、狭いわたしの部屋にはアンティークとそれ以外のものとりまぜて、なんと照明が全部で6個もありました。

何故こんなに照明が集まったのか考えてみると、ひとつは物理的な理由で、いくら骨董が好きでも、大きな家具は置き場所に限りがあるんですね、だから、必要なものを揃えてしまったら、そうそうは買い足せないんです。と、なると、場所をとらない小物や照明に走り出すのです。

もうひとつの理由は、照明は、わたしが『王国』の章でかいた、”骨董の持つ独特の時間の流れ”を、操ることができる装置だからだと思います。
どんな時間でも、カーテンを閉めて白熱灯を灯せば、そこは夜の空間になるのです。夜は停止した時間、それはわたしを守ってくれる。白熱灯は夜の装置、『夜』を投影する幻灯なのです。

実は二番目に買ったアンティークは、ベントウッドの椅子と、リプロダクションですが照明でした。それは今も枕元にあって、わたしの眠りや眠りの前の時間を見守ってくれています。

「シルクのアイピロー」

eyepillow

最近でこそずいぶんいろいろなデザインのものがあるけれど、昔は日本では扱ってさえいなかったから、ハーブショップで買ったもので作ったりもした。

実際に目にのせることはあまりないけれど、枕もとに置くだけでもラベンダーの涼しい馨がする。ラベンダーは好きで、虫除けにもなるというから、私の部屋にはクローゼットからチェスト、行李にまでどこにでもサシェが置いてある。そのせいか、不眠はあまり体験したことがない。

眠りは暗示だから、眠りのための味方は多いほうがいい。
シルクは冒頭でもかいた、コクーン・繭からできている。

この小さなピロー(枕)は、人を眠らせに来る眠りの妖精のためのものと思っている。