「大正浪漫」

kiku

父の家は実はむかしは土地で一財あったようなお屋敷だったという。確かにわたしが子供の頃はなんだかやたら季節ごとの行事も華やかで、まわりには妙に「おにいちゃん」とか「おねえさん」とか「おじさん」とか、大人が多かった。あれは思えばあちこちにうちが貸しているマンションやアパートがあったせいなんだろう。母の実家は養蚕をしていたし、土地の名士らしくて家の裏手には今も旧い蔵がある。おまけに父方の祖母は着道楽な人だったりしたこともあって、我が家には以前、新旧とりまぜて着物がいっぱいありました。母のものなんだか祖母のものなんだか、はたまたさらにその上からのお下がりなんじゃないかというものまで。
さまざまな事情があり、我が家系は見事に没落したそうですが(笑)。

そのため残念ながら、和服なんていう現代では着る回数の少ないものは引越しのたびに減っていき、今ではごく一部のものしか残っていません。

わたしはそういう習い事を全くしていない割にはけっこう和服を身に着ける習慣があるほうだと思います。自分で着るにもふるい和服は独特の色味や風合い、情緒があって大好きなんですけど、どうしても保存状態がよく保たれていなかったり、せっかく状態はよくてもむかしの人は今より全然小柄だったりしたこともあって、丈や裄が足りなくて着られないものもあったりするのが残念です。

とは言っても着付けも何も、実は全部母から教わっただけのみようみまね。帯や小物の合わせ方にも格とかいろいろあるんですけど、わたしは気にせず洋服と同じに好きなように着てしまいます。今は和服っていうとフォーマルなものばかりが中心でしょう? フォーマルっていうのは常に規則があって、その行儀のよさが結局服をつまらなくしてしまうのは和洋共通。だったらそんなものを大事に抱えて死蔵してしまうより、自由に艶やかに破壊して装いたい。

旧い着物にお気楽な半幅帯、汚れが目立たないから襟は色つき柄つき。柄on柄なんてあたりまえ。ちょっとくらい虫が食ってたって着ちゃえばわからないし(笑)、汚れるのを気にしておとなしくガチガチになって着るんじゃ意味がない。カネコの服と同じ思想、日常着としてのコーディネイト。旧い時代の夢を現代の粋で軽やかに装う。

こんなところにも、『どこにもない異国』は息づくのです。