10代の頃から何故か古いものが好きでした。英国のふるい家具や、ランプ。大正頃の柱時計。高校生の女の子においそれと手の出るものではなかったのだけれど、それでも少しずつ何度も、散財を繰り返して。ナルニヤ国に行けそうなワードローブ、アーチ型の大正時代のボンボン時計、鏡の少し歪んだドレッサー…。
そうして気がつくとわたしの部屋は骨董ばかりになっていました。
部屋に招いた客人は、口をそろえるようにこう言います。「よくここで生活できるね」と。
出られなくなる――――のだそうです。ふつうの生活に戻れなくなると。
社会性を消耗する部屋だと、黄昏のままのような白熱灯の灯りのなかでは思うようです。
骨董というのは、長い時間を静かに生きてきているので、そのものの持つ時間の流れがヒトより緩やかです。そういうものをひとつところにたくさん集めてしまうと、その空間も骨董の持つ時間の速度にのまれてゆきます。勿論、そこに住まう者の時間も。
はじめからそんなことを考えて骨董と暮らし始めたわけではなかったのだけれど、結局わたしはその時間が欲しかったのかもしれないと、あるときから思うようになりました。
1920年代頃(英国)
オーク材ホールローブ
都内のアンティークショップで購入
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最初に買ったアンティークはこのワードローブ。着道楽の業というか、美しい衣を収納するのに相応しい美しい器を…という感じで真っ先にこんな大物を買ったわけですが、これは実は「ワードローブ」ではなくて「ホールローブ」というもので、玄関ロビーに置いてお客様の外套などを一時お預かりしておくクローク用だったのでした(そんなもんが存在するってどれだけ贅沢な文化なんだ)。そのため奥行き内寸がハンガーの幅より狭く、衣類収納としては使用できないという計算違い。しかしデザインが気に入っていたのでめげずに換骨奪胎、中に棚を仕込んで本棚として使用してみると、扉が閉まって中身が隠れるので雑多な資料も漫画もCDも全てすっきり部屋の中に収まったのでした。