人間は、欠けている、何かが足りない、という状態に苦しんだり渇えたりして、
それを満たそうと努力したり足掻いたりするものです。
そうして何かを獲得して(それは物であったり実力であったり人の心であったり
様々ですが)、そして満たされて安定する。
そしてそれを「しあわせ」と人は呼ぶのだと思います。
でもものを作る人間というのは、完全に満たされていてはいけないのだなあと
よく思います。一瞬満たされて、そしてまた欠ける。欠けているときのほうが多い。
わたしなんかは幸いにしてとても恵まれていて、唄うことによっていろんなものを
満たしてもらってきました。ただ唄うことだけでも幸せ、そして今唄い続けられる
ことの幸せ、ファンの方が応援の声を届けてくださることの幸せ。
唄を唄いたい人がたくさんいる中で、わたしは今とても恵まれていると思います。
それでもやっぱり自分には今でも欠けているものがたくさんあって、
それはそもそもわたしが持ち得ないようなないものねだりでもあるのかもしれないのに、
そういうループに嵌ると欠けていることから目を逸らすことができない。
「欠けていると感じる」ことによって心は餓えるし渇くしとても苦しいし、
ときには世界中が自分を必要としていない錯覚に陥って世の中を怨んでみたり。
誰でも感じることだと思いますが、こういうのって実は「感じる」自分が
自分を苦しめているだけで、自分のせいでしかないのに実に処し方無い。
感じないように目を逸らしておくこともできるのでしょうけれど
(そしてそれは実はとても優しくて素晴らしいことでもあると思うのですが)、
そういう不安定さや苦しみから創作は生まれてくるのだといつも思うのです。
幼い頃はそういう悲しみや苦しみを創作に凝縮しきれなくて、
自分を傷つけてみたり人を傷つけてみたり制御が利かなかったものですが、
…今でも完全に制御できてるわけではないですが(苦笑)、
今はせめて人を傷つける分くらいは創作へ凝縮することができるようになって
きたので、欠落が悲しいときは敢えて目を逸らさないようにしてみたりします。
創作人というのは本当に子供で我儘で偏ったイキモノなのですね。
学生の頃はそうして毎日が悲しくてつらかったなあ。
それらの日々も何かを創ることと、美しい花や空や鉱石やレースを見ること、
音楽を聴くことで生きてきた気がします。
創り手というのは、己が傷から溢れる血を啜って虹を吐くのです。
悪夢であれ天上の美であれ、それが美しいことを祈りながら虹を吐くのです。